昭和54年11月10日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
何かこの御教えは当たり前の事を、言うておられると言う様な気が致しますですね。ところがなかなかその当たり前の事が出来ないのです。自分が助からずしておいて、人を助けると言った様な事は出来ません。神信心も手習いも同じ事。一段一段進んでいくのだと。助かると言う事には限りがありません。けれどももうここまでは助かっておらなければならない。信心をさして頂いてここまでは助かっておらなければならない。いわゆる昨日の御理解を引用しますと。まことの心とこうあります。
それを信心の信と書いてまことと読ましてありますね。その内容というものが。昨日小郡の病院長のお話をしました様に、もう人が助かる事さえ出来ればと、人が助かりさえすればよいと。人を助けてやれとこう言う。それにはそんならざぁっとして助かるとは思いません。本当にこの人が助かりなさるならば、助かりさえすればよいと言う所には。やはり自分もその人の為に努力をしなきゃならない。精進しなければならない。
その人が助かる事の為にやはり一修行もさしてもらおうか、という位な気持にならなければ助かりさえすればよいというものではないと思う。これも小郡のあの戎浦さん所の家を建てられた大工さんではないですけれども。本当に人が喜ぶ事の為の家を建てたり、もうそこの住まっておる方達が本当に、いい家を建ててもろたというて、も喜んでもらえばそれでいい。もとにかくその喜びが受けれる為に、夜も眠れんような事がありますと言われる。
私は、この二つを思います時に、もう助かっておる、と思うですね。人が助かる事さえ出来れば、と、ね。只合楽に参りなさい。合楽に参るとおかげ頂きますよ、と言うただけではいけんのです、ね。助かりさえすればよい、と。為に助かってもらわなければならんのです。
その為には、なら自分が精進もしょう、努力もしょう、という時に初めて、ね。人が助かりさえすれば、という事になるのじゃないでしょうか、ね。そういう心が使えれる、そういう信心精進が出来るようになる、ね。いうなら商売人が、お客さんが喜んでさえもらえれば、と、ね。兎に角お客さんに喜んでもらいたい。そういう商売がしたい、ね。
もう儲かりさえすりゃよか、と、ね。助かってん助からなん。兎に角、まあ嘘でも八百でもよいから、嘘の宣伝してからでも、いうならば患者が沢山来るような宣伝をして助かる助からんはどうでもよい。自分に力もないのに、宣伝をして患者を沢山集める、という病院も、それこそ昨日それを医術が算術になっておる、というようなふうに表現しましたよね。
そういうなのがありますですよ。ほう、も宣伝が上手な病院があります。そしてそこの院長さんな魚釣りどん行ってござる、ち言うごたるとが、ね。それでは私は、ね。人が助かりさえすりゃよい、という精神にもとっておると思う。人が助かる事さえ出来れば、と、いうなら助かる事の為に、自分が精進しなければならない。より、んなら医者であるならば、ね。医術の方の研究もしなければならない。
信心によって人が助かる。自分自身が助かっておる、という事はどういう事か、というと。人が助かる事さえ出来れば、というような思いが募って来る。そして人が助かる事の為なら、本気で自分も修行でもさしてもらおうと、というような心の状態。も兎に角、人が喜んでさえくれればよい。そういう心の状態が、私は助かっておる状態だと思うのです。ね。
必ずしもお金に不自由している人が、いうならば沢山のお金を持たなければ助かっとる、という事ではない。自分、不健康な人が、ね。まだ本当に健康状態になってしまわなければ助かっておる、という事ではない。問題は、心が助かっておる。んなら心が助かっておる、この助かりを人にも助かってもらいたいと思うならば、ね。人が助かる事の為なら、精進さして頂いても修行さして頂いても、でも助かってもらいたい。
そういう心の状態を私は助かっておる。まず我が身におかげを受けて、というのは、そういう意味でのおかげである、と、ね。もうお金にも不自由せんごつなった。一家中が健康でもある。商売は繁盛しておる。ね。そりゃよいおかげを頂いておる姿ですけれども、ね。そこまで行かなければ、人を助ける事が出けん、という事ではないのです、ね。
その人が助かる事さえ出来れば、というその思いの内容というものは、ね。助かりさえすれば、助かるならば、私が修行でもします。私が、ね。信心努力、精進致しますから、どうぞ助けて下さい、という事になる、ね。人が助かる事さえ出来れば、というのは。ただここでは簡単に、合楽に、兎に角参りなさい、とてもおかげ頂きますよ、と、こうお導きをするといったような意味とは違うように思いますね。
我が身におかげを受けて、という事は。そりゃただまあ軽い意味合いでいうならばです。自分がお願いをしたら、不思議におかげを頂いた、ね。だから合楽にお参りしなさい。これもやはり、その時の自分がおかげを受けたから、人にも伝えていくんですけども、まず我が身におかげを受けて、という事の、もっとその内容というものがです。後に人を助けてやれ、という人が助かる程しのもの。それには自分が助かっておらなければならない。
自分が泳ぎを覚えておらなければ溺れておる者を助ける事が出来ないように、ね。自分が泳ぎもきらんとに溺れとるから、ち言うて飛び込みよったら、自分も一緒に溺れてしまわんならん、ね。自分がまず、泳ぎを覚えてから、どこまで覚えるか、人が助かる事。いわゆる真の心。
それを信の心、とある。信というのは信心の信ですよね。人偏の、その信心、というのは、その内容でなからなければならんのはです、ね。ま昨日の御理解を、そのまま頂けばよいと思うです。自分の力で、というのではない、ね。神様のおかげを頂かなければ立ち行くかんという所迄分からしてもろうて、そして人が助かる事の為ならば、一修行も二修行もさしてもらおうという心の状態、ね。そこに初めて、人が助かる程の働きというものが起こってくると思うんです。
自分も、それこそ一段一段高めていく。人一人が助かれば、いうならば一人の神、と仰る位ですから、十人助ければ十人の神という事になるのですから、一人一人助かっていく上に、ね。いわゆる自分の信心も一段一段助かってくる。あなたのおかげで助かった、と人から喜ばれる。
本当にその喜ばれるおかげ。も喜ばれるという事が、自分の信心の身上でなからなければならない。ね。我が身の上におかげを受けて、というのは、ね。いうならば、そういう意味に於ての助かりを自らが頂いて、そして人を助けてやれる力を頂きたい。
為にはやはり、一段一段信心を高め進めて、力を受けていかなければならない、という事になりますですね。ね。人が助かりさえすればよい、と、ね。人を助けてやれ。そこにはなら、人が助かりさえすればよい。助かる事の為に自分が精進する、ね。そういう信心をさしてもろうて、自分の周囲に、それこそ五人でも十人でも助かる。あなたのおかげで助かった、という事になれば、その十人助かったら十人の人がです。
あなたのおかげで、という時に、本当先生あなたのおかげで助かった、というような、いうならば神様が与えて下さる資格、という。そういう位が一段一段高められていく、という事をです。楽しみに信心さして頂くようになったら、あなたは、いうならば信心によって助かっておる、という事になる、思うんです。
まず我が身におかげを受けて、という事は、そこ迄は一つおかげを頂きたい。そこ迄は神様が信じれるおかげを頂きたい。人が助かる事さえ出来れば。いえもう人のだんかい、自分さえ助かっとらんのに、といったような信心から、も、人が助かりさえ出来れば、人が喜んでさえもらえれば、ね。そういう信心。
その根底になるものはです。やはり障子一重がままならぬ人の身である、という自覚であり、神様のおかげを頂かなければ立ち行くかん、といったような思い、というか心がいよいよ募ってくる。そこに真実の、いうならば教祖の教えによって我が救われた、助かった、という事になるのです、ね。
高橋正雄先生の言葉じゃないけれども、ね。教祖、我を救う、ですかね。何か言葉があります。教祖様の教えによって、私が助かった、と、ね。そこから助ける働き、人に喜んでもらえる助かり、そこに段々、周囲に助かる人達が、いうならば、ね。先生と言わなければおれない、ね。おかげで助かった、という人達が出て来る事を喜びとして、それこそ楽しみともさせて頂くような信心を、いよいよ身に付けて行きたいですね。どうぞ。